本筋を離れるが、学力低下論争を通じて、批判はするが代案は出ないのか、という指摘をたびたび受ケタ。
私としては、自分の考えに基づく代案を出すつもりは最初からなかった。 改革をリードする理念をひねり出すだけの力量も専門的な知識もないし、実践をリードしてきた経験もないからである。

しかも、そうした自分の能力の限界は別として、代案はすでにどこかに存在するという考えを持っていた。 国の内外を問わず、どこかに存在する多様な試みの中にしか、現実的な代案は出てこない、という見込みを持ってである。
ただし、それぞれの地域で行われている「地方からの教育改革」をどのようなものととらえるのかについては、多くの課題か残されている。 どのように評価するかによって、それぞれの経験から学べる知識の価値が違ってくるからである。
そういう評価という付加価値を加えた教育改革の「実践記録」を積み上げていくことで、現実的な代案も見つかるだろう。 教育改革について言えば、日本に唯一の「正解」などあろうはずがない。
多様なニーズに応じた多様な試みを、評価を通して共有可能なモデルに仕立て上げていくことが代案づくりにつながるのである。 国家による統制の仕組みの変化(第1の変化)、福祉政策の変化(第2の変化)と並んで、国家の役割をめぐるもうひとつの重要な変化についても、実態把握をもとにした評価の役割が決定的となる。
最後に、最近の教育基本法をめぐる動きとからめて、この第3の国家の変容と評価の問題から、日本の教育論議の限界を明らかにしておこう。 グローバル化か進む中で、国家の内部での不平等も拡大しつつある。
しかも、人、モノ、金、情報がやすやすと国境を越えることになった結果、国家は求心力を失いつつある。 個人主義を自己の真正性と重ねる「本当の自分」探しへの傾斜も、自己責任論理のもとで進む階層化も、この傾向に拍車をかける。
このような事態に対し、「国を愛する心」を強調しょうとする保守派の動きが活発になっている。 日本では、2003年3月に、中央教育審議会が、教育基本法の改正に向ケタ最終答申を出した。
そこには、新たに教育の理念として追加されるべき、8つの項目が提案されている。 その中に「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自律心の涵養」と「日本の伝統.文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」の2つがある。
後者の「国を愛する心」の部分については、改正の反対派から、戦前回帰につながる国家主義的「改悪」だとの批判が出されている。

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